ベトナムでは日本企業の進出が目立っています。先日イオンベトナムの社長のお話をお聞きする機会がありました。イオンは大型店舗のイオンモールを南部に3店舗、北部に1店舗を建設して事業をしています。それ以外にもスーパーマーケットをベトナムの事業者と合弁で他店舗展開していますし、その傘下のコンビニのミニストップも展開をしています。

イオンモールは都市の郊外に建設していることもあり、ほとんどがベトナム人のお客さんです。食品や日用品の販売をしていますが、営業としてうまくいっているのは、レジャー産業型、教育産業型の店だと言うのです。ベトナムではめったにない高級な設備を持ったイオンモールで、店内は冷房完備と言うこともあり、家族連れでレジャーに来るそうです。商品はウインドウショッピングですが、せっかく来たので、家族で食事をしたり、ゲームをやったりするようです。また、そこに家族で来たときに学習塾を見つけると、子どもに教育を受けさせようとするようです。まだまだ、商品は従来型のベトナムの市場で買いますが、サービスはこのような大型施設で提供を受けるようです。このようなことは昨年開業したホーチミン高島屋でも見られます。富裕層だけでなく、中間層が訪れることもおおくなりました。少しずつベトナムも豊かになっているようです。

イオンベトナムの社長が、店内のイベントのときのエピソードを語っていました。雨季に入るときのイベントを企画したようです。その際に折り畳み傘を

展示することを日本人が提案したそうです。ところがベトナム人は、そんなもの買うはずがないと反対したと言うのです。ベトナム人はバイクで移動をするので、バイクにいつも雨合羽を入れています。日本の雨合羽と違って、ただ掛ける

だけのものも多いです。そのため傘に比べて圧倒的に安いのです。傘が600円から1000円位するのですが、雨合羽は50円から100円程度です。

ところが展示した折り畳み傘は飛ぶように売れたと言うのです。これもベトナム人の生活が代わり始めているのかもしれません。傘は晴れの日にも使うことができます。熱帯のベトナム南部は日差しが強いですから、女性は日よけ用にも

使っていることが多くなりました。ベトナム人女性は色が白いことにあこがれています。そのため少し余裕が出ると傘を買う人も増えてきたようです。社会の変化とは面白いものです。傘という面から見てもベトナムは徐々に先進国に近づいているようです。

さて先月の放送では、アフリカで生まれた旧人類一つが新人類に変化し、アフリカでしばらくはコロニーを作ったうえで、一部が世界に拡散していったことを伝えました。その過程で今まで拡散していた原人や旧人は、生存競争に負けてしまったことを伝えました。現代人の祖先は先に世界にちらばった原人とその後変化した旧人ではなく、アフリカに留まっていた旧人が新しい遺伝子の変化を獲得した後に世界に拡がった種であることをお伝えしました。広い地域に分散した集団は、それぞれの地域で異なった環境の変化などで、DNAの変異を獲得していきます。その変異したミトコンドリアDNAの分類を、ハプログループ(ハプロタイプの集団)と言います。大きく分けるとアフリカから出ないグループ(非出アフリカ=ネグロイド)、南ルート(オーストラロイド)、北ルート(モンゴロイド)、西ルート(コーカソイド)に分かれるようです。

そのころは氷河期でしたので、あちこちで陸続きだったようです。特に南ルートは、マレー半島からインドネシアの島々がインドシナの地域と陸続きだったと言います。その陸のことをスンダランドといいます。オールトラリアのほうもニューギニアと陸続きだったらしく、比較的簡単に移動ができたようです。南ルートを渡ったオーストラリアの先住民のアボリジニなどのことを指します。北ルートはシベリアに渡ったルートや中国、朝鮮半島を渡ったルートがあるようです。アメリカ大陸も陸続きだったので、アメリカの先住民などもその一種です。西ルートは白人の下になったコーカソイドです。コーカサス地方(黒海とカスピ海の周辺地方の名前がつけられています)のあたりからヨーロッパに広がった集団です。日本人の起源も遺伝子による調査でわかることになります。やはり日本人は北ルートを通ったモンゴロイドからなることはおおむね間違いはないのですが、他のアジアとはかなり違っているようです。

ところで桐生にいたときに岩宿遺跡を見たことがあります。その当時有名な遺跡でした。皆さんのほうが良く知っているとは思いますが、今日の本題に関係するのでちょっとだけ触れさせていただきます。1946年(昭和21年)その当時桐生市に在住していた無名の青年考古学者の相沢忠洋さんが笠懸阿左美の崖にある関東ローム層から黒曜石の石器を発見したことから、縄文以前には日本には人類が住んでいなかったという通説がひっくり返った大発見でした。それにより日本にも旧石器時代があり、人類がいたことが証明されました。

旧石器時代、たとえば岩宿遺跡に住んでいた人は最近の研究でわかるようになって来ました。ハプログループという遺伝子の型13よる分類されていることからどこから来た種族かがわかるようになりました。それによると現在の日本人はD分類が最も多く37%を占めるようです。中国中部から朝鮮半島を経て、稲作をもたらした種族です。ただこの人たちは弥生時代の中心になる人たちです。

そのほか中国南部を起源とするB分類は、海の覇者として太平洋にも出て行きましたが13%もいます。それよりも古いのが、海底に沈んだスンダランド(マレー半島やインドネシア)から来たのが日本最古の定住者M7分類で13%です。

逆に中国北部やシベリアなど北からやってきたのが、最北の住人G分類が7%です。シベリアでマンモスハンターをしていたグループが、A分類でこれも7%。カムチャッカ半島などから来た流氷の民族N9が7%。彼らは古代から魚を食べていたとみられます。岩宿遺跡の住人は、AかGの分類が祖先と思われます。それ以外に東南アジアからはF分類が5%で、東南アジアからはあまり広がっていないグループですが、一部は日本にもたどり着いたようです。そのほか北欧と血を分けたZ分類も1%存在します。

日本に渡った古い順と来た方面の違いで分けてみましょう。古いのはハプロM7の幻の大陸スンダランドの末裔です。南方からやってきました。それらの人たちも以降縄文人となっていきます。その後、ハプロBのハワイの原住民とも関連がある中国南部からやってきた人たちが続きます。彼らは海の覇者として太平洋や南米にも広がりました。それが南方からやってきて縄文人となった人たちです。

一方、北方から渡ってきた人たちもいました。ハプロAの狩猟民族マンモスハンターは、アメリカ先住民にもなりました。いわゆるインデアンですね。日本ではこの人たちも縄文人になりました。また、カムチャッカにいた人たちは魚を取る流氷の民として日本に定着した人は縄文人になりました。縄文人とは、南方から来たグループと北方から来たグループの両方が該当するようです。縄文人とはかなり広い遺伝子を持ったアジアでは類を見ない独特の存在でした。そして独特の文化を長く継続させました。

ところで日本で最も割合が大きいのが、日本に来たのは新しいハプロDの人々です。37%を占める中国中部からやってきた人たちです。その人たちがやってきてからの歴史を弥生時代と言います。弥生人は中国中部で暮らしていた人たちの子孫です。中国はその当時、始皇帝によって中国が秦という国に統一する前の春秋戦国時代のころです。中国は漢民族が支配する構図になっていきましたが、それ以外の多くの中国に暮らしていた人々が難民として日本に流れていった歴史と考えられます。その人たちが稲作や中国文化をもたらしたと考えられています。その人たちは漢民族ではないので、古代に中国近辺に住んでいた古代中国人ということになります。

ただ実際の稲作は縄文時代にも痕跡が見られます。それは縄文人が朝鮮半島や中国との交易があったからだと言われています。稲作は最初焼け畑で作られていたようですが、沼地で栽培するほうが米粒の成長が大きくなるので、水田に変わっていったとのことです。このようなことをあえて書いたのは、ネットを見ていると稲作をもたらしたのは渡来形の人ではなく、縄文人であり弥生人はいなかったと言うような極端な論調もありました。中国からの難民が祖先とは認められないと考えている人も相当数いるようです。中国の難民は、古代中国人で今の漢民族の先祖とはちょっと異なるようですので、中国嫌いの人も少しは安心してください。

このように見ていくと日本人は単一民族という考え方は間違っていることになります。日本人の特徴は、南方から来た人と北方から来た人が、多様な能力や経験を持った人たちが融合していった歴史にあると言えます。それらの人たちは自然と共存して生きていた狩猟と採集の民族です。そのため自然を崇拝する「八百万の神」の信仰がそれぞれの地域で生まれていきました。縄文文化は氷河後の対馬暖流の影響で東北や北海道でも栄えました。しかし、その後の寒冷化で森の恵みの変化などで、最後まで残ったのが縄文のふるさとは長野県諏訪地方です。諏訪大社の「御柱祭り」は、もみの木の巨木に宿っている神を迎えて神社の柱になっていただく行事ですが、縄文信仰の典型的な考えを表した祭りです。

そんな諏訪大社ができる過程に関する記載が古事記に書かれています。所は出雲の国です。そこで高天原から来た天照の遣いが、出雲の大国主命に国を譲れと伝えに来ました。出雲の大国主命は天照に国譲りをしたことが神話になっているので、おそらく出雲を拠点とした豪族だったのでしょう。大陸との関係も深いことから、新しいタイプのリーダーになっていたものと思います。当然稲作を中心とした弥生文化の中心になった存在です。

大国主の次男タケミナカタが、天照の使者からの国譲りの要求を拒否しました。決着をつけるため力相撲で戦ったのですが、相手の冷たい腕が氷のような剣になり、負けそうになったので逃げ出しました。幾日もかけて遠く離れた諏訪にたどりつき、農耕を伝えながら諏訪明神となりました。それまで諏訪を支配していた狩猟採集民のリーダーであるモレヤは戦いを挑んだのですが、もはや農耕文化には勝てず、モレヤが敗れ、縄文から弥生に移行しました。ただ、これ以降狩猟採集の民が信じていた神も供に祭るようになったらしいのです。その伝説からも、縄文と弥生の融合をあらわしているようです。日本全国で発生したであろう縄文と弥生の対立と融合は、古事記や神話の世界で語られている日本の意外な事実です。

日本人は縄文人と弥生人の混血の結果、今の現代日本人につながっていると言えそうです。自分にどんな血が流れているのか気になるところです。縄文人の特徴は、背は高く、四肢や指が長い、顔の輪郭は四角形、目はパッチリで二重瞼、唇が厚い、耳たぶが大きく、鼻は広い、巻き毛、耳垢がぬれている、しみが多い、ウインクができるのだそうです。弥生人はその逆で、背は低く、四肢や指は短く、体毛は薄い、顔の輪郭は丸く、目は切れ長の一重瞼、耳だぶは小さく、鼻は細い、唇も薄い、直毛、耳垢が乾いている、片目だけを閉じるきれいなウインクができない、だそうです。性格でも縄文人は、少数精鋭かつ対等な関係を好み、弥生人は秩序だった集団行動を好むとのことです。世界的に見ると狩猟民はO型が多く、農耕民はA型が多いようです。自分のことを考えてもどちらか一方ではありません。完全に混ざっているといえますが、どちらかと言うと縄文系かもしれないと思いました。

人類の歴史と古代日本人の歴史をたどってみましたが、もし日本人が日本列島だけで暮らしていて、外のことは何も知らないとしたら、今頃は日本人の祖先とは違っていたかもしれません。アメリカやオーストラリアがそうであるように、先住民として特別な地域で特別な保護と規制を受けて生きていたかもしれません。あちこちの遺伝子を受け継いでいる多様性こそが、日本人としての独立性を維持できた由縁ではないかと思います。融合できることこそが日本人の優れたところであるようにも思います。最初はけんかをしても融合していった縄文人と弥生人の歴史が、今の日本人にさりげなくヒントを与えてくれていると私なりに思っています。

以上