2019.3.9

 

 2月末に行われた米朝首脳会談がベトナムの首都ハノイで行われていました。世界的な関心事でしたので多くの日本の方々も関心を持っていたと思います。ハノイに出張していた友人たちは、交通規制によりスムーズな行動ができなかったことを伝えていました。何らかの合意があると思われていた会談ですが、物別れに終わり、成果に乏しいものになりました。やはり力の強いアメリカが北朝鮮要求に妥協しなかった結果とみていいでしょう。米国には急いで成果を上げる必要はなかったと思います。トランプ大統領も今急いで成果を出すことの効果はあまりないことを判断していたのでしょう。日本人から見ても米国が性急に成果を上げようとして、安易な妥協をするよりは良かったかもしれません。

 今後の展開を考えるとき簡単に北朝鮮がアメリカの主張通りに折れることも難しいのではと思います。経済や統治の面で弱点を抱えていれば、妥協せざるを得ないと思いますが、弱者であることを隠さずに助けを求めることはしないでしょう。強国の論理で弱小国は翻弄されてしまいます。歴史的事件を学習していれば、北朝鮮も安易な妥協をしないのではないかと推察します。今回はそのようなことを考える私なりの根拠となる歴史的事実を紹介しましょう。

 歴史的に見ていくと強国の論理で弱い国が翻弄されることは数々起こっています。近代においてアジアは西洋列強によって翻弄され続けてきました。日本でも徳川幕府が大政奉還し明治維新につながっていく時代は、日本の体制の変革の要因になりました。それ以上にアジア諸国においては激動の時代でした。西洋列強がアジア諸国の植民地化を進めていた時期だからです。1840年におこったアヘン戦争は、英国が中国(その当時は清)との貿易が盛んになったことによるある要因が影響していました。

 英国は清からお茶や絹を輸入して、銀で支払いをしていました。ところが紅茶の大流行の影響もあって、英国が輸入超過になり、それまで支払いに充てていた銀が少なくなってきました。そこで英国は、その頃支配していたインドをかませて、三角貿易をすることにしました。インドでは綿花を英国へ輸出して、その生産物である綿布をインドに輸出しました。ただそれだけではインドの支払いが足りません。そこで英国は銀の代わりにインドからアヘンを中国に輸出するようにして、英国、インド、清との三角貿易によって、清への支払いを相殺することを思いつきました。

 アヘンとはみなさんご存知のようにケシの実から採取される麻薬の一種です。長らくは医薬品として使われていましたが、19世紀になると英国が嗜好品として持ち込み、瞬く間に広がっていきました。依存性が高い薬ですから、常用すると体力、気力が衰え廃人のようになってしまいます。英国の三角貿易でもたらされたアヘンによって清の社会と経済に深刻な問題をもたらしました。

 当然のことですが、清ではアヘンの輸入禁止に動きます。林則徐という人物が厳しくアヘンの密輸を取り締まりました。それに困った英国は、戦争を仕掛けました。その当時のイギリスは鉄製の蒸気船を持っていました。一方清は木製の帆船です。勝ち目はありませんでした。2年間続いた戦争に勝利したのは英国でした。戦勝国の英国は南京条約という不平等条約を結びました。最近まで英国領だった香港はこの時に女王陛下の所有する領土となりました。

 時として戦争とは正義が勝つわけではありません。さすがに英国のやり方はかなりひどいと思わざるを得ません。力のあるものが都合よくふるまっているのです。力の弱い国はこのような不合理な目に合わされるのです。力の強い国が核兵器を持っているにもかかわらず、弱小国には核を持たせないことは、支配の構図を恒久的に続けることも目的の一つでしょう。その点で言えば、米国と北朝鮮の駆け引きは今後も継続することでしょう。その構図の中で、中国やロシアの動き方も注目されるところです。

 清はアヘン戦争を経て、日清戦争、義和団事件を経て、中華民国の成立につながっていきます。清は満州人が中心の国家でした。中華民国は漢民族の国です。何かをきっかけにして体制が変化するのです。強国の不当な支配に関しては、そこに住む人たちにとっては体制変換の大きなチャンスになる可能性があります。歴史を動かす指導者がいれば大きな変化をもたらすことでしょう。

 ベトナムおよびインドシナのラオス、カンボジアも1858年のフランス・ベトナム戦争を経てフランスの植民地になりました。英国がマレーシアやインド、ミャンマーも植民地化していました。タイという英国とフランスの緩衝地帯を挟んで、英国とフランスは互いに植民地を分割しました。フランスは鉱山の開発やメコンデルタでのコメ、ゴムの生産で莫大な利益をもたらしました。フランス映画の「エマニエル夫人」や「ラマン(愛人)」は、そのころの東南アジアを舞台にした映画です。支配していたフランス人と現地人の関係が見えてきます。そこで使用人として使われている現地人は、奴隷のような存在にならざるを得ませんでした。植民地では大規模農園(プランテーション)で生産された農産物からフランスは大きな利益を得ていました。

 それ以外にもインドネシアはオランダの植民地、フィリピンはスペインの植民地からアメリカの植民地に変わっていきます。その後の帝国主義の時代と呼ばれた時代がやって来ます。西洋列強がアリア、アメリカ、アフリカを支配する時代に進んでいきました。そのころの国家資本主義は、財閥企業の力を取り込んでいきました。大企業同士が生産協定や価格協定を結ぶカルテル、同一産業の各会社が合併によって巨大化するトラスト、その結果様々な産業分野を株式保有などで支配するコンツェルン(財閥)になり、国家権力と結びついて帝国主義になっていきました。帝国主義の国同士の覇権争いがいずれ第一次世界大戦につながっていきました。

 列強に支配される構図が変わるのは第二次大戦の終了からです。戦後民族解放の動きが盛んになりました。ベトナム北部のホーチミン率いるベトナム独立同盟は、ベトナム民主共和国を樹立し独立を勝ち取りました。ところが戦勝国のフランスは南部にコーチシナ共和国という傀儡政権を作りました。その後、フランスとベトナム(北)は戦うことになります。この戦いは8年続きましたが、フランスの敗戦で決着しました。

 ところがそれでベトナム統一とはなりませんでした。東西冷戦に向かう世界の情勢に翻弄されたのがベトナムでした。当面の措置として19547月ジュネーブ協定により、北緯17度線を境にベトナムは分断されました。南ベトナムはアメリカを後ろ盾にした傀儡政権ゴ・ディン・ディエムが大統領になりました。ジュネーブ協定では、とりあえず休戦協定を結び、19567月にベトナムの住民による自由な選挙で統一の可否を決定することにしていました。この選挙は国際監視委員会の管理の下で、休戦の2年後の7月実施が約束されました。しかし、米国は最終宣言への参加を拒否し、南ベトナムの休戦協定にも反対しました。そのためこの協定は拘束力を失ってしまいました。そんな中で北ベトナムに影響を受けた南ベトナム開放民族戦線(ベトコン)が結成されて、ベトナム国内は内戦状態になっていきました。

 その後大統領になったケネディは北ベトナムの後ろ盾にソ連がいることから、インドシナ地域の共産化ドミノ倒しを防ぐため北ベトナムの勝利を阻止しようとしました。それが世に言われるベトナム戦争です。米国は特殊部隊を派兵するなど徐々に戦争に深入りし始めました。ただこの時点ではまだ南ベトナムを支援する程度の介入でした。米国が本格的に参戦するのは、ジョンソン大統領の時代です。1964年トンキン湾事件からです。トンキン湾事件は、米国が次のように主張しました。「米国の軍艦が北ベトナムの警備艇に攻撃を受け、直ちに反撃のため北ベトナムを爆撃した」と声明を出しました。このことから北爆といわれた北への攻撃が進められました。

 そのトンキン湾事件ですが、後にでっち上げだったことが判りました。4年後、ジョンソン大統領と対立して辞任した国務大臣マクナマラはこの事件は米国のでっち上げであることを告白しました。米国にとっては軍事介入の口実が必要だったのです。軍部が独走する戦争の主導権争いでは、そのようなでっち上げやうそが繰り返されます。米国は泥沼の戦争に入り込んで行きます。その戦争がジャングルでのゲリラ戦であったことから、米国軍も精神や体力を消耗する戦いでした。また米国や世界での反戦運動が広がりました。日本でもべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)が盛んに反戦運動を展開しました。

 戦況の分岐点となったのは1968年テト攻勢です。それは、米軍の本格介入で劣勢に追い込まれた解放戦線側が、巻き返しを図って展開した乾坤一擲(けんこんいってき)の作戦でした。解放戦線はテト(旧正月)の休戦の隙をついて、首都サイゴンをはじめ「南」全土の主要都市と基地に一斉攻撃を仕掛けました。サイゴンの米大使館も一時、占領されかけたほどでした。 それ以降、米国軍は押されっぱなしになりました。それどころか1968年ソンミ村虐殺事件など米軍の野蛮な対応に国際世論の批判が集中しました。ソンミ村の事件は、米国軍が住民を手当たり次第に虐殺した事件ですが、ベトナム戦争の米国批判の象徴的事件になりました。その後、ニクソンショックなどに表れる米国の経済問題もあり、国際世論の批判もあり、米国はベトナムから撤退し、ようやくベトナムが統一することになりました。ベトナム戦争以来、同じ民族の国が分かれていたケースは、朝鮮半島とベトナムとドイツでしたが、今となっては朝鮮半島だけになりました。

 ベトナム戦争は国際世論が米国の正義なき戦争に強い批判を与えました。それと同時に米国経済を疲弊させました。1971年に突然発表されたニクソン大統領の声明をニクソンショックといいます。その声明は米ドルと金との交換を停止するというのです。それまでは金を担保に米ドルを発行していたはずですが、金ドル交換停止(金とドルとの固定比率での交換停止 )をすると一方的に発表したのです。要するに、米国には金は米ドルの発行額ほどはないということです。米ドルの価値は見せかけだけの価値だったということです。一方アメリカの支配力が衰える中で、世界第二位の経済大国になったのは日本でした。アジアの諸国からはこのような日本の姿が、「エコノミックアニマル」という言葉で表されました。皮肉にもベトナム戦争で経済的に恩恵を受けたのは日本でした。ところが今の日本は新しい時代が訪れているにもかかわらず、古い安定の中で新しいものが生まれなくなっています。

 植民地の時代は産業革命の成果を手にした西洋列強が、軍事力を背景にアジアなどで富を稼いでいきました。その支配の構図は、民族解放運動などの影響で崩れていきました。民族解放運動の過程で、米国の下請けであった日本は経済が徐々に成長して行きました。しかし今の時代は、IT技術の進歩によって、特定の企業や国が情報を独り占めできるようになりました。そのような企業が成長しているのは特定の国だけです。グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾンの4社を合わせてGAFAといいますが、ビッグデータを利用した情報の支配がどんどん進んでいます。GAFAは世界の先進的なビジネスモデルを築いています。その反面、人の嗜好の情報を次の売り上げに生かしたり、個人情報をを勝手に蓄積し、人々をコントロールしています。世界企業の特権を生かして税金を払わない方向に持って行ったりしています。特別な地位を与えられた存在になってしまいました。

 一方で中国に至っては、一党独裁の政治体制のもと、国家資本主義による産業育成が行われています。中国のIT御三家といわれる百度(バイドゥ)、アリババ、テンセントはどんどん巨大になっています。百度(バイドゥ)は自動運転、アリババはスマートシティ、テンセントは医療分野に進出しています。これらの企業は国家と結びついて巨大化しています。帝国主義の時代をほうふつさせるようにも思えます。中国政府と結びついたこの企業は、中国の国家戦略の重要な部分を担おうとしています。それに対してアメリカは強く警戒心を持っています。中国の企業ファーウェイのカナダに住んでいる副社長が拘束されたニュースが最近ありました。今や中国は東南アジアの通信市場にどんどん入り込んでいます。一帯一路政策と言われる海のシルクロード、陸のシルクロードを表す世界進出のプランは、特にIT技術、AI技術の世界進出と絡んでいます。

 通信技術の劇的な進歩の中で、新しいタイプの企業が世界中で広がっています。しかし、大部分は米国と中国の企業が目立っているだけです。平成元年の世界時価総額ランキングベストテンにランクインしている企業は、NTT1位、2位日本興業銀行、3位住友銀行、富士銀行、第一勧業銀行と続き、日本企業が7社、米国企業が2社、英国企業が1社でした。平成30年の時価総額ランキングでは、アップルが1位、アマゾンが2位で、アメリカ企業が8社、中国企業が2社アリババとテンセントが入っています。日本企業の最上位が35位のトヨタのみでした。平成元年にはベスト50の中に32社の日本企業がランクインしていましたが、平成30年はトヨタ1社のみしかランクインしていません。企業一覧を見ると世界には新しいタイプの企業が生まれています。ところが日本は従来型の企業ばかりです。

 先日、上智大学の学生さんたちに講演をしましたが、ベトナムで最も利益を上げている企業として紹介したのがサムソンです。なんで韓国企業なのかと皆さん驚いていましたが、日本にいる方には韓国企業や中国企業がアジア諸国で受け入れられていることをあまりご存知ではありません。逆に日本製品は年々見る機会が少なくなっています。今の日本人に必要なのは、海外で日本の今の姿を知ることではないかと思います。

 今後中国が国家資本主義の威力を発揮するのではと思っています。特に通信のような公共インフラがサイバー攻撃されたら現在社会は機能停止に追い込まれます。その点で言えば国家戦略的に動いている米国と中国は強い立場を維持するのではないかと感じています。その中で日本は、米国、中国の覇権争いにどんな立ち位置を保つかが問われています。私の内心は、以前おエコノミックアニマル的な漁夫の利を得るような立場ではない、日本の独自色を強めて、金満ではないが精神性が豊かな国になれないかなあと思っています。

以上